このページの本文へ

ここから本文

災害は完全には防げない、そこで必要となる減災の考え 歴史的な街並みに隠された知恵をアップデート災害は完全には防げない、そこで必要となる減災の考え 歴史的な街並みに隠された知恵をアップデート

 どんなに防災技術が高度化しても、災害大国ニッポンにおいては災害による被害が完全に無くなることはない。むしろ地球温暖化の影響とされる異常気象が、「想定外」の災害を生み出す回数を増やしており、その度に各自治体は復旧に追われることになる。我々に必要となるのは防災技術を高めるとともに、実際に被害に遭うことを想定しながら、その被害の影響をいかに小さくするかという観点にたった減災だ。
 では減災はどのように行うのか? そのヒントはこれまで幾多の災害を乗り越えてきた歴史的な街並みに隠されていると、立命館大学理工学部環境都市工学科教授の大窪健之氏はいう。トライ・アンド・エラーで経験的に技術を蓄積し、災害に相対してきた街並みには、先人たちの減災の知恵がある。そのような減災の知恵をアップデートすることが、今の日本には求められている。

大窪健之さんの写真

立命館大学理工学部環境都市工学科教授

大窪 健之(おおくぼ たけゆき)

グローバルCEOプログラム「歴史都市を守る『文化遺産防災学』推進拠点」拠点リーダー等を担当。京都大学大学院工学研究科環境地球工学専攻修士課程修了。歴史都市や文化遺産の防災設計と、歴史を活かした防災まちづくり手法の研究を行う。著書に『歴史に学ぶ 減災の知恵』(学芸出版社)。共著に『テキスト建築意匠』等多数。

先人たちが
どう災害を乗り越えたのかに興味

――今のご研究にたどり着くまでの経緯を教えていただけますか。

大窪健之さんインタビュー中の写真

 元々は建築設計の分野で、デザインと景観設計を研究していました。京都大学で助手だったころ、阪神・淡路大震災に直面しました。神戸の街はモダンで美しく、歴史もあって素敵だな、と思っていたのです。ところが、人間が長い時間かけて作り上げた街が、震災によって一瞬で瓦礫になる姿に直面しました。美しい街をつくるためにはその前提として、災害に対する対策が欠かせないことを痛感したのです。それ以来、防災に関する研究をするようになりました。特にデザインや景観と防災の接点の研究に、力を入れています。

 今は環境都市工学科という、環境分野と都市工学といった土木分野が融合した学科を担当しています。そもそも建築と土木は垣根が低いのですが、さらに立命館大学は文系と理系の垣根が低いのです。ここで環境の防災と歴史的な街づくりを組み合わせて、社会に役に立つような研究をしています。

 歴史的な街並みは、一般には災害に弱いと考えられています。石などを建材に使う外国人から見ると、日本の歴史的な建物は紙と木で出来ているのが不思議に思われるほどですが、それゆえ火災や地震をはじめとする災害に対して課題があります。かといって、例えば京都の清水寺界隈の歴史的な街並みを、火災や地震への対策を理由に鉄筋コンクリートに建て替えることはできません。歴史的な価値と文化的な価値を同時に守りながら、災害の安全性を高めていくのは難しい課題です。一方で、歴史的な街並みを構築してきた先人たちは、災害に対して無策だったわけではなく、被害を最小化させるための知恵が随所に見られます。

 災害対策という分野でいくと、工学系の先生方や研究者の知見が必要になってきます。歴史や文化を守るという話になってくると、歴史学の先生や保存学の先生、考古学の先生など多くの関係する方々の知見が必要です。そのような分野から興味がある方たちに集まっていただき、文理融合の形で歴史の知恵を活かした防災まちづくり手法の開発に向けての研究が始まりました。立命館大学に歴史都市防災研究センターを設立された土岐憲三先生が初代センター長として開始されてから、もう20年近くになるでしょうか。

歴史的な街並みには
減災の知恵が必ずある

――先人の知恵は、現代においても重要な意味があるということですね。

 防災に関して最先端の技術研究が重要なのは間違いありません。それに対して歴史的な街並みや文化遺産は、確かに特別な保護が必要なのは事実ですが、一方でそもそも我々現代人よりもはるかに長い災害の歴史をくぐり抜けてきたからこそ、文化遺産などとして歴史的価値が認められている面があります。技術が進歩していなかった時代に、様々な災害をどうくぐり抜けたのかを、ちゃんと調べることには意味があるのです。

 今も高度な防災技術をもって、自然災害をすべて取り除こうとする努力がされています。それでも災害による被害はなくなりません。近代的な技術で対応しようとしても、これまでに経験したことのないような「想定外」の現象に対してはカバーしきれなくなり、結果として大きな被害を受けることが未だに繰り返されています。

 このような「想定外」の現象が起きた際に、昔の人たちが積み上げてきた、なるべく被害を最小化しようとする、言わば「減災の知恵」が活かせるのではないか。近代的な防災技術が機能しなくなってしまった時に、最後の砦として減災が役に立つかもしれない。このような観点から、災害の歴史を調べたり、さまざまな可能性のある減災の知恵を収集したりして、それをアップデートして現在の街づくりに活かすことを考えています。

防災を口実にして景観を守る

――減災の知恵とは、例えばどういうものでしょうか?

 先人たちが工夫をして、いろいろな選択肢がある中でそれを選んできたということは、災害に対して命を守るための様々な努力がされていたわけです。それが結果として街並みや形になっていれば、減災の知恵と呼んでいいと思います。そういったものに関してはいくつも見つかりました。

 ただそれの立証が難しい。なぜなら、先人たちは工夫をした理由などについてはほとんど書き残してくれてはいないからです。学者としてはちゃんと科学的に立証する必要があるので、事象を選んで研究で科学的に立証していくことを進めています。

 例えば、火事に対する備え。日本では木造の歴史と文化を持っています。一方で、火事が起きた場合は一瞬で灰になってしまう。地震は、壊れても部材は残ってくれる可能性がありますが、火事はそうはいかない。ですから、日本において火災対策は本当にしっかりとやっていかないといけなかったという歴史があります。

 この火災対策の知恵の1つとして考えられるのが、樹木を群として存在させる伝統的な緑地帯の存在です。緑地帯は風よけとなることから、台風の強い風から家屋を守る効果があることは古くから知られていました。加えて、沖縄県の離島である渡名喜島においては、多くの屋敷が樹木で囲まれているのですが、その屋敷林が「防火目的として伝統的に整備されてきた」というのです。これは文化庁が作成した報告書の中にも記載されています。

 ただし、先人が本当に防火目的のために緑地帯を設置したかどうかは定かではありません。そこで、延焼シミュレーションによってその効果を評価しました。緑地帯があった場合と失われてしまった場合にリスクはどう違うのか、というのを検証しました。その結果、緑地帯はかなりの延焼防止効果があるということがわかったのです。報告書にあった記載は間違いないものであり、減災の知恵として位置づけられます。

渡名喜島の緑地帯の効果をシミュレーションした画面
渡名喜島の緑地帯の効果をシミュレーションした画面。建物の消失リスクを算出し色分けしている。右が現在の緑地帯がある状況、左が緑地帯を無くした状況。緑地帯を無くすと赤色で示されている消失リスクが高い建物の数が圧倒的に多くなっている(資料提供:大窪健之氏)

 渡名喜島は「重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区と略称)」として定められています。これは歴史的な集落や街並みを国として認可をし、保存と整備を積極的に行うものです。現在、130近くが定められていますが、渡名喜島はその一つです。屋敷林を含む美しい街並みが認められているわけですが、その一方でその景観を維持するためには、コストがかかるのも事実です。補助金制度が設けられている場合もありますが、個人で出費しなくてはならないこともあります。

 その場合でも、科学的に屋敷林が命と財産を守るということが証明できていれば、景観と共に地区全体の安全を考えた場合、積極的に維持するという方向にベクトルが傾きます。歴史的な景観には好き嫌いがあるかもしれませんが、防火上も重要な意味があるんだということになれば、誰もが嫌とは言えないでしょう。防災を口実に歴史的な街並みの再生ができる可能性が見えてきたわけです。

防災の観点を加えれば
補助金も得やすい

――渡名喜島の例は防災と緑の維持を両立させようとする例ですね。他にはどのような事例があるでしょう。

 その他の例としては、岐阜県高山市の三町(下二之町大新町を含む)に見られる土蔵群があります。この町も、やはり重伝建地区として定められています。三町は古くから飛騨の中心地で、狭い通りをはさんで、軒の低い洗練された意匠の町家が連なっているのが特徴です。また、栄えた当時は表の道路に面した間口の幅に応じて税金が定められていたため、どこの家も間口は狭く奥に細長くなっています。

 その敷地の中を見ると、道路側には母屋があって、その次には小さい中庭があって、最後にぽつんと離れて土蔵があります。土蔵は土で塗り固められているので、火事に対して防火効果があります。この配置にしておけば、母屋で火事があった時でも、土蔵までは距離が遠いので、大事なモノを守れる可能性が高いという考え方です。

三町の敷地図の画像
ほとんどの敷地が、狭い道路から母屋、中庭、土蔵の順番で並んでいる。土蔵の連なりが防火帯の役割を担っていることが検証されてきた(学芸出版社発行の『歴史に学ぶ減災の知恵』より引用)

 この構造の敷地がずらりと並んでいるために、結果として敷地の奥に土蔵がずらっと並ぶことになります。街全体として見れば、土蔵の連なりが防火帯の役割を担っていると言われています。事実、20世紀の終わりに地区内で大規模な火災がありましたが、土蔵の壁で焼け止まったこともありました。この土蔵の効果に関しても延焼シミュレーションで検証しました。するとやはり、土蔵が連なっているのと、土蔵が部分的に欠落しているのとでは、延焼を抑止する性能に大きな差があったのです。

 今は土蔵を使う人は少なくなり、また維持することもそれなりに大変なので、壊されるケースも多くあります。壊すことで周りの人たちの火災のリスクが高くなることが証明されたわけです。

――自治体と協力して土蔵を守るということもされていいように思います。

 高山市の場合、土蔵が立ち並んでいることは防火にも意味がありそうだということは以前から指摘されていました。しかし重伝建地区の制度は、基本的には街並みの景観を守ることがメインなので、道路から見えるところは補助金が出やすいですが、土蔵のように奥でほとんど見えないものについては、なかなか予算が出にくかった。補助金も出ないのなら、古くなってきたのだから、壊そうという話になりがちです。

 そんな中、今回の研究で土蔵は街並み全体の防火に役立つことが科学的に証明されました。意味付けができたことで、補助金も確保しやすくなることが期待されます。制度の改善に繋がります。補助金をもらえるのだったら、何とか土蔵を残そうと考えなおす人も多く出るでしょう。

地震で崩壊したことがない
五重塔の秘密

――日本においては火事に対する備えは昔から充実していたのですね。

 先ほど日本では木造の歴史と文化があるという話をしましたが、これは日本の気候が関係しています。日本は1年を通じて比較的温暖で、また雨も豊かです。植物の生息の適しており、木材も豊富に入手できたのです。このため木造建築が多く、火災に対しては非常に敏感だったと言えます。

 その対策の一部はこれまでも説明してきましたが、他にも少しでも飛び火の被害を抑えるために、屋根には不燃の瓦が推奨されたという経緯があります。また、非常に人口密度が高かった京都では、狭い道を挟んで向かい合う家屋においては、お互いの屋根が道に向かって低くなっています。これは万が一に向かいの家が火事になった際にも、なるべく上方へ吹きあがってくる火炎の影響を避けようとする結果であると言われています。

――地震に関する減災の知恵は、何か特徴的なものはありますか。

 正直、地震に対する減災の知恵が世代を超えて受け継がれると考えるには、ちょっとタイムスパンが長すぎると思っています。人の寿命は、江戸時代ぐらいまでは大体50年と言われていました。地震の頻度は、相当頻発する場所であっても、日本の場合はおおよそ100年から150年ぐらいです。ですから、よほど意識をしない限り、自らの地震の体験が後世に伝わるということにはなりません。

 火事であれば頻繁に起こりますし、いつ自分の身に降りかかるか分からない。また、台風はほぼ毎年のように来るので、対策をした結果、効果があったかどうかが分かるので、さらに「こうしてみよう」といったように知恵が受け継がれていく。地震の場合は頻度が少ない分、先人の知恵が残りにくいように感じます。

 そんな中で、永らく謎とされてきたのが「五重塔」の耐震能力です。五重塔は、日本の建築文化の中でも実用よりも高さを追及した特殊な建築です。五重塔に関して、雷が落ちて燃えた、あるいは台風で根こそぎ倒れてしまった、といった記述はたくさん残っていますが、地震で倒れたという記録がほぼありません。被害を統計的に調べた研究では、江戸時代以前に建てられた五重塔22カ所を対象に調査した結果、震度6以上と推定される地震に延べ16回遭遇したにも関わらず倒壊した記録は見つかっていません。

五重塔が耐震性を持つ原理を説明した画像
五重塔が耐震性を持つ原理。各層がバラバラに動いているので共振することはない。それらの動きは心柱が支えているので崩壊も抑えられる(学芸出版社発行の『歴史に学ぶ減災の知恵』より引用)

 五重塔は、その中心に心柱(しんばしら)と言われる長い通し柱が据えられています。ただし、上下階を貫く通し柱はこの心柱一つだけ。これ以外の各層を支える柱は、上に行くに従って少しずつ内側にずらして立てられています。この構造が先細りの優美なシルエットに貢献しているのですが、このため心柱以外に上下階で直接つながっている柱はありません。すなわち五重塔は、大きさの異なるバラバラの層を順に積み重ねて、その中心を心柱でゆるく串刺ししただけの、現代の建築基準法とはかけ離れた構造をしているわけです。

 この構造であれば、各層で大きさや重量が異なってきますので、地震が起きた際にも揺れが増幅されるような共振が起こりません。地震に対して各層がバラバラに動くことになりますが、その動きを中心にある心柱がカンヌキのようにゆるく支えているために、完全に崩壊することもないのです。五重塔はこのように柔らかくしなることが、地震で倒れない秘密と考えられています。

 この考えは、東京スカイツリーにも応用されています。東京スカイツリーでは、中心部を貫くように鉄筋コンクリート造の円筒状の「心柱」が設けられ、その外側を包み込む鉄構造の本体とは構造的に分離されています。地震時などには、双方がずれて振動するために揺れを相殺し、全体の揺れを抑制します。実際、東日本大震災が発生した際、東京スカイツリーは翌年の竣工を目指して建設の真っただ中でしたが、目立った被害は報告されませんでした。

――まさに先人の知恵が現代にアップデートされた好例と言えそうです。

 ただし、昔の棟梁たちが揺れを相殺するなどの効果を考えて、すなわち耐震性を考慮した構造に五重塔を意図的にしたとはとても考えにくいのです。先ほども言ったように地震は数世代に一度しか発生しないので、トライ・アンド・エラーで経験的に技術を磨いたとは想像しにくい。心柱は、その下に釈迦の遺骨とされる仏舎利を収めていることから墓標の意味を持ち、それゆえ太くて立派なものとなったと共に、神聖であることから他の部材と強固に結合されることもなかった。

 地震学者の方々には、五重塔の構造は耐震性を考慮した結果だと主張される方もいらっしゃいます。私は様々な背景の元に成り立った偶然の副産物のように思いますが、いずれにしろ「地震を受け流す」減災の知恵が現代にも貢献しているのは大変興味深いところです。

広域避難場所は関東大震災の遺産

――日本で起きた大きな地震といえば、江戸時代の最大の地震と言われる安政江戸地震(1855年)や、最近でいえば阪神・淡路大震災(1995年)や東日本大震災(2011年)が挙げられます。また、地震災害で最多の犠牲者を出したのは100年前に起きた関東大震災(1923年)ですが、ここから得られた教訓はありますか?

大窪健之さんがホワイトボードを使って説明している写真

 関東大震災では、約10万5000人という膨大な数の命が奪われました。その中には倒壊した建物の下敷きになるなど地震で直接亡くなられた方もいらっしゃいますが、9割近くの方がその後に起きた火災で亡くなったと言われています。ちょうど日本海側にいた台風によって強風が吹き荒れ、それによって各所で起きた火災が拡大し、人々は逃げ遅れることになりました。

 この被害がきっかけで、政策として設けられたのが広域避難場所です。今でも各地方自治体によって定められている広域避難場所は、「地震などによる火災が延焼拡大して地域全体が危険になったときに避難する場所」のことを指し、実は延焼火災から逃れるための対策としての意味合いが大きいのです。

 火災になると中途半端な広さの場所に逃げるとかえって危なくなります。実際、関東大震災においては、あまり大きくない広場に多くの人が密集し、逃げ場を無くしたという報告も見られます。このため、広域避難場所として指定される場所は、少なくとも市街地から30メートルは離れていて、かつ多くの人が収容できるよう一定の面積(原則おおむね10ヘクタール以上、地域によって異なる)を備えていることが条件とされています。

 このため広域避難場所は、学校や公園になる場合が大抵です。ただ、学校でも都心部ではそんなに広くない場合は多くあるので、地域によっては近くには広域避難場所はなく、緊急避難場所という名称で場所を確保している自治体もあります。もちろんそのような場所でも避難することは重要ですが、広域避難場所との違いは知っておいた方がいいかもしれません。

重要なのはコミュニティを通した
減災の活動

――先人の知恵をこれからの防災、減災に活かすには、どうすればよいのでしょうか?

 まず知っておいてもらいたいのは、今の様々な先端的な防災技術であっても、今後の大規模災害の場合には機能しなくなる可能性があること。その際に重要になってくるのは、どれだけ減災できるのかということです。

 減災の際に大事になってくるのはコミュニティです。今の私たちは、何かあってもハードウェア的に被害を減らしてくれることにどうしても期待してしまいます。ただ、人が関わることによって災害を減らすということは、決して自動的にいくわけではなく、そこには知恵と工夫が求められます。

 昔は技術がなかったこともあって、人が関与することで被害を減らすということを、ある意味当たり前のように行い、減災の知恵をつくりあげてきています。ハードウェアで頑張るけれども、ハードが持ちこたえられない部分はソフトウェアでカバーすることは当たり前なのですが、それがきちんとできていたと思います。

 しかし今は、技術進歩によってハードウェアが頑張ってくれます。台風の頻度は同じでも洪水の頻度が減ってきているので、たとえば住民で結成した水害予防組合が情報を集める、といった訓練を実施しているケースはほとんどなくなりました。昔は必ずこのようなコミュニティがあって、そこに参加することで被害を減らす仕組みがありました。減災という視点でコミュニティをどう再生していくかがすごく大事です。地球温暖化の影響とされる天災の報道が増えているせいか、自分のことを守る自助はやっている方が多い。一方で、共助というネジをまかないといけません。

――具体的に取り組んでいる自治体はありますか?

 歴史都市防災をやっている関係で、いくつかの地区から依頼をいただいて、重伝建地区の防災計画づくりのお手伝いをしています。京都府北部の加悦町、茅葺き屋根の集落が現存していることで名高い京都府南丹市美山町、皿そばが有名な兵庫県豊岡市の出石町などでこれまでお手伝いしてきました。

 地区の防災計画づくりをする際には、必ず最初に住民と一緒に防災のためのワークショップをやることにしています。住民と一緒に地域を歩いて、いろいろ点検したうえで、震度の大きな地震が起きたと想定した上でシミュレーションを行います。

 断水が起き、電気も止まる。交通網も破壊される。そういう状況でどんな現象が自分の地域に起こるのかを考え書き表していきます。住民のみなさんと一緒になって、いろいろ想定するのです。地域の住民の目線から見るからこそ、細かいリスクがわかるのです。そのうえで住民の目線に立ったハザードマップを作ります。

 大規模災害の場合、行政を期待するかもしれませんが、複数個所で同じような被害が起きていたら、多くを行政には望めません。その地域で取り組んでいる人たちで何とかしなくてはならない。最後に機能するのは、そこに生き残ったコミュニティしかない。それを昔の人たちは当たり前に実践していました。

大窪健之さんの写真

 例えば堤防の高さや長さを決める際、しっかり作りすぎてしまうと、万一水が超えてしまった時に、中に水が貯まってしまう。だから堤防の下の方には水が抜けるように穴をあけておいて、復旧を早める工夫をしていた。災害を防ぐことよりも、その後いかに素早く復旧するかを考えていました。そういった知恵を育てるには、まさにコミュニティと一緒に取り組む必要があります。自分たちで状況を把握して、リスクを共有したうえで、どこまで対応するのか知恵を出し合う。そういったことを自分たちで考えていくのが大事なことだと思います。

(写真:大亀京介)
※本記事内の製品やサービス、所属などの情報は取材時(2023年7月)時点のものです。

ページトップへ戻る